戦争の「正当な根拠」と、それを支える「空気」について

 これは日本だけに限ったことではないとは思うのだけれど、戦争に向かう「空気」というのは、「戦うだけの正当な根拠」があってはじめて成り立つ。日清戦争日露戦争は、朝鮮半島の利害関係をめぐる争いが発端だった。しかしこれらも、すぐに緊張状態が生まれたというわけではなく、そこに至るまでの「空気」の熟成期間があった。日清戦争の場合、朝鮮国内の不安定な政局に日清双方が介入を繰り返し、妥協が図られていた。日露戦争の場合は、三国干渉を経て「臥薪嘗胆」を強いられた世論の後押しもあった。

 満州事変から日中戦争においても、全面戦争に至る「空気」が熟しつつあった。国民国家としての「統一」を目指す中国に対して、日本はそれまで血で贖って得た「権益の確保」という名分があった。こうした相違する両国の認識が、世論を含めて戦いを呼び込み、これを肯定する「空気」となっていったのである。「対支膺懲」というスローガンは、条約や協定で取り決めた権益の維持を守らない中国を懲らしめるべきという「空気」そのものを反映したものであり、やがてそれは中国を背後から支援する英米両国にも向けられた。太平洋戦争はそんな「鬼畜米英」という「空気」によってはじめられ、続いていった。

 しかし、社会の雰囲気に後押しされてはじめられた戦争は、それゆえにマネジメントが極めて難しい。日清戦争日露戦争は、それが可能だったと後世から評価されているけれども、実際は欧米諸国の仲介を受けて矛を収めることができたに過ぎない。その後の第一次世界大戦は、そんな欧米列強同士が全面戦争をはじめ、泥沼化していったけれども、それは仲介できるだけの強力な第三者を欠いていたからという理由も無関係ではなかった(終盤まで中立を維持していたアメリカも、当時は超大国といえるほどの国力はなく、結果的に連合国側に参加してしまう)。

 日本もその関連からシベリア出兵に参加することになるけれども、その撤退に至るまでの過程はグダグタであり、すでに日中戦争や太平洋戦争におけるマネジメント失敗と同じ要因をみることができる。

 このように、近代戦争は為政者たちが勝手に決定して行われるものではなく、そこに至る「正当な根拠」があり、それを支持する「空気」の存在を無視することはできない。私は、現在の世相を戦前のそれと「似た」ものと捉える見方には、違和感を覚える。そこには前提となる政治、経済、社会、外交などの相違を無視しがちだからだ。

 けれども、そうした警鐘を単にユートピアニズムと切り捨てるべきではないとも考える。すでにみてきたように、現在もまた、安全保障政策を推進する「正当な根拠」がそこにあり、それを支持する「空気」がある。

 もっとも、国民国家である以上、私たちは世論や世相といったものと無関係に暮らすことはできない。「空気」というものを一切断ち切って、決定や行動をすることは不可能だ。

 それを前提としてなお、問われるべきはその「空気」との付き合い方ということになろう。

 「戦争を起こさない」ことは、戦火によって失われる可能性のある「国民の生命や財産を守るため」でもある。しかし戦争が起きて犠牲者が出た場合、その理由は逆に戦争継続に転じることにもなり得る。つまり、失われた生命や財産への責任を問う声がそれだ。

 両者はともに戦争をめぐる「正当な根拠」であり、それを支持する「空気」をつくる。だからこそ、戦争は簡単にマネジメントできないのだ。

 それぞれの時代における「空気」のあり方を包括的に評価、判断することは、私たちもまた現在という時代を生きている人間である以上、不可能だ。それならば、まさに現在における「空気」について自分なりに検討していくしかない。

 東アジア情勢の変動に即した安全保障政策を構築すること、これに異論を挟む余地はない。ただ、外交上の連携や妥協に加え、軍事的オプションについてどこに線引きを設けるべきか。ミサイル迎撃だけではなく、もっと積極的な政策を打つべきなのか。自衛隊の拡充や核武装という選択肢はありなのか。憲法改正の是非、あるいはそこで検討されている自衛隊の役割や正当性についての是非。

 「空気」という曖昧模糊なものも、こうした各論から検討していけば、自分の立ち位置が見えてくる。そういう意味で、「空気」との付き合い方は、それをぼんやりしたかたちで、反戦や安全保障に結びつけるのではなく、具体的な検討や評価を経て、自分の意見を持つこと。そしてその意見が本当に自分たちの生命や財産を守ることになるのか、絶えず問い直すという行動が何より求められる。

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戦後72年「似た空気」に危機感